激弱メンタルだけど嫌われる勇気を持とう。
自分は自尊心の低い人間で、色々と拗らせてしまっているが、最近もこんなことがあった。
会社から今年他社で働いた分の源泉徴収票を提出してくれと言われ、辞めたアルバイト先に送って貰えるよう連絡を取って、無事郵送で届いたのだが、お礼の連絡を入れるべきか迷って踏ん切りがつかず、数日立って先方から書類届きましたか?と連絡が来てしまったのだ。
あー、やってしまったと思った。
冷静に考えれば向こうだって届いたかどうか知りたいだろうし、届けばお礼を言うのは普通だが、自分は踏みとどまってしまった。
自分なんかが連絡して迷惑じゃないかな、不快に感じないかな、という心配がどうしても抜けなかったのだ。
書いていると自分でも大丈夫か?と思ってしまうが本気で思っているから怖い。
でもよくよく考えてみるとこれって相手のことを考えていなくて自分勝手な考えなんですよね。
自分の頭で冷静に考えて相手のためになると思ったんならそれをやったらいい。
いやでもそれで相手が不快に思ったりしたら嫌だしな。。。とか思ってそっちを行動に表してしまっている時点で自分の事しか考えていない奴だ。
アドラー心理学で言うところの嫌われる勇気を持つことと課題の分離ができていないのだろう。
自分のことはコントロールできるけど、相手のことはコントロールできない。だからすべての人に嫌われないようにするのは無理。
何をしても一定数の人にとっては不正解になってしまうのだから、相手の顔色を伺って自分が本当に適切だと思ったことをできずにいるよりも、嫌われる勇気を持って、自分の価値軸で生きよう。
一貫して自分の価値軸で行動していれば似たような価値軸を持った人達が集まってくるし、逆に合わない人とは一緒にいずに済む。
一貫して自分の価値軸で行動するためには、こいつに嫌われてもいいやって思えることなんだと思う。
で、こいつに嫌われてもいいやって思えるようになるためには、2つの考え方があると思っていて、1つは別に人から嫌われてても意外と支障なく生きていけるということと、もう1つは他のことが良ければそれで良いということ。
だから今に満足することって重要なんじゃないかなと、思ったりするのです。
今に満足してれば、別に嫌われたっていいやって思えるんじゃないかな。
趣味は誰のために?
先日、2ヶ月ほど前に辞めたバイト先のバイトメンバーと飲みに行った。
ちょっと特殊なバイトであるためか、ユニークで面白い人たちばかり。
そんな人たちと久しぶりに接していると、なんだか自分は本当に何もなくて空っぽだなと思ってしまった。なんか自分、つまらないなと。
だからといって面白い人になろうとして何かをやるのはインスタ映えの奴隷になるのと同じでなんか違う気がしているけど、でも今のままじゃなんかちょっとなという気もする。
いや待て、ところで何で面白い人になりたいんだろうか?
面白いって、誰目線で?
他者に面白いと思ってもらえるようになりたい?
他者に面白い奴だな、と思ってらもらえることが増えると人脈も広がりやすいしチャンスも増えると思う。面白いと思われやすいと得だということがわかっているからこそ、自分の感情を無視して、自分はあまり興味はないけど面白いと思われそうだからやってみようみたいなことになりかねない。
それはある種打算的で、無意識のうちに見返りを期待してしまうこともあるかもしれない。そうなったら周囲の反応が自分の期待を下回った時に相手に不快感を覚え、いくら隠そうとしてもそれは相手にも伝わってしまうだろう。
あなたのために頑張ったのになんで称賛してくれないの?となってしまったらそれは悲劇だ。
頭に浮かんだことをただそのまま書いていったらだいぶまとまりのない文章になってしまったけれど、結局、何かするときに他者に期待をするのはやめようということに落ち着いた。
もともとは自分が好きだからやっていたことも、例えばそれをSNSに上げていいねをもらう事に快感を覚えたことがきっかけになったりして、段々いいねを貰うためにやるようになってきたりすると、同じことをやっているのにいいねの奴隷になってしまうんだよね。
いいねを貰うために、ってところが人に期待するということ。
いつの間にか自分ためではなく人のためにやるようになって、報酬がもらえているうちはいいけど、報酬が期待を下回った時に不快感を覚える。でもその不快感はまるで見当違いのもの。だって期待を向けられた相手からしたら、自分のためにやってくれなんて1ミリも思ってないわけで、そっちが勝手にやったことだから。
だから自分が何かをやるときは、誰のために、何のためにやってるのかを確かめながらやろうと思う。
Twitterに上げていいねをもらう為にやっているなら一旦考え直したほうが良いだろう。
ミニマリズム。
ミニマリストというのがちょっと前に流行ったと思う。
僕がミニマリスト、ミニマリズムというものを知ったのは佐々木典士さんがテレビに出てるのを見たのがきっかけ。
僕の実家は散らかり放題で、自分の部屋もたまに綺麗にするけど維持は出来なかった。
母と弟は物が捨てられないタイプだし、母と僕は恐らく軽いADHDなのでその事もあり片付けが苦手。(ミニマリストの中には発達障害の人も多いらしい)
てな訳で狭いわりに物が多い環境で育ってきたのでミニマリズムには衝撃を受けた。
何よりミニマリストは自由だ。それに一番憧れた。
最小限のものしか持たない暮らしは身軽だし、お金もかからない。
物を得る事によって幸せを感じる事に慣れてしまうと多分苦しい。5千万の車を買っても幸せを感じるのは一瞬で、1年も乗ってればそれが日常になってしまう。だから際限がないんだよね。
幸せから物やお金をできるだけ切り離して生きて行きたい。
これから日本の経済は衰退し、格差は広がる一方。
その中でも幸せに生きる為にはミニマリズムの考え方が必須になるのではないかと思う。
お料理。
一人暮らし。
コンビニ飯は好きじゃないし(たまになら良いけど)、スーパーのお惣菜とかも毎日だとちょっとな(金もないし)という感じなので初期から夜はほぼ自炊をしていました。
と言っても料理するというよりは何らかのタンパク質を帰るように調理するという感じ。それでもまぁ普通に幸せだったのですけど、ちょっと料理をしてみました。
休みの日に仕事ある日は営業時間的に行けないちょっと遠いスーパーにて買い物。仕事がある日に行くスーパーは遅くまでやってる代わりにスゲー高いのです。しかしそのスーパーは違いました。
何と鶏モモ100g39円!!思わず--しそうになりました。
これなら他の材料買っても経済的だなと思ってトマト缶やらナスやらキノコやら買ってチキンのトマト煮を作ってみました。実家で母親が作ってくれたチキンのトマト煮が大好きだったし、切って炒めて煮るだけだから簡単そうなので。
そしたらオイオイ
めちゃくちゃウマいぞ…
これまで昼はコンビニでしたが、昼もタッパーに詰めて仕事に持って行きました。そしたらQOL爆上げ。
その次はチキンの照り焼き。
ちょっと思った味とは違かったけどそれでもウマイ。
料理楽しい!!
気が滅入ってしまうと食欲がなくなる気質ですが、手の込んだものなら食べられるということもわかりました。
それと自分は不器用なのですがものづくりが好きなのです。
料理はものづくり。ものづくりに集中できるというのはマインドフルネスにもなってすごくスッキリします。
消費するだけでなく作ることで楽しみや幸せを感じられるというのは良いですね。
スキルも上がって自己肯定感も増すし。
自炊楽しもー。
予測と結果
ひろゆきさんの話を聞いてるとこの人頭良いなー、頭の良い人の話ってやっぱ面白いなーと思いながら聴いてます。
その中で何でこの人って頭良いんだろう、てか頭良い人ってどういう思考をしてるんだろうという疑問が湧きました。
自分の周りの頭良い人たちを見てもひろゆきさんを見ても「疑問を持つ」「考える」ということをよくやっているなと思うのですが、なんか自分の中でそれだけだと腑に落ちなかったのですよね。
自分の行動に落とし込めないというか。
だってある事象に対して疑問を持つという事自体、たぶん頭が良くないと出来ないんですよ。もしくはそれに対して興味がないと。
考えるにしてもただ漠然と何かの事を考えるって難しいと思うんです。考えたつもりでも考えが浅いとか言われますしね…。
頭良い人はどういうフレームワークを使ってものを考えているのか、どういうフレームワークを使えば頭良い人に近づけるのかな。
そんな事を考えながら今日もひろゆきさんの話を聞いていました。
そしたら一つ気付きました。
ひろゆきさんて何かの感想を言うとき、このパターンだとこういう展開になることが多いんだけどこれはそうならないから面白いんだよねーみたいなことをよく言うのです。
これだ!!!!!!
これたぶん仮説を立てて検証するということを繰り返してるんじゃね?
という事に気が付きました。
これってこうなんじゃね?という仮説を立てて、実際どうなるのか見てみて、仮説と結果が一致すればこれはこうなんだなという事で自分の中に蓄積され、不一致が起きればそれはそれでまた自分の中に蓄積される。
そして何で一致したのか、不一致したのかを考える。場合によってはその仮説をもとにまた検証する。
このプロセスの中には興味を持ち、疑問を持ち、自分で考えるという事も自然と入ってきます。
そしてこのプロセスの何が良いかというと、学習が起こる事。
このプロセスって運動学習のコンパレータモデルと同じなんですよね。
動作の意図と結果の一致・不一致によって運動学習が起こるわけです。
意図が無いと学習は起こらない。意図を発生させることが学習においては大事。よく目的志向型の運動を処方しましょうねと言われるのはこのため。
おそらく運動以外の学習においてもこれはあてはまるのでしょう。
こういう人ならこういうこと言えば喜びそうだよねとか、この展開なら普通この後はこうなるよねとか、そういうのをひろゆきさんとか頭の良い人って引き出しとしてたくさん持っててスゲーなといつも思うんですが、これはただ漠然と情報をシャワーしてるだけでは得られないと思うのですよね。
仮説を立てて、検証するというコンパレータモデル様のプロセスを経る事によって学習が促され、その人のデータベースに蓄積されるのかなと。
仮説を立てる時には過去の自分のデータベースを参照して考え、結果を検証。もし不一致が起きたときも仮説があるから、仮説に対してどういう不一致が起きてそれはなぜ起きたのだろうかというふうに考える事ができる。
仮説が無い状態だと、何かを体験しても漠然とあ、そうなのねで終わる。学習もさして起こらないだろうし、得られた結果に対してもすごーいとかつまんなーい程度の事しか感じられないでしょうか。
頭良い人はたぶんこれを自然にやっているんじゃないかな?
学習が促されるから同じ情報を得てもデータベースに蓄積されるデータ量が多くなるし、データベースに蓄積されているデータ量が多ければ次に仮説を立てる時により良い仮説を立てられるだろうし、
良い仮説を立てられれば結果について考える時もより良い思考ができるということだと思う。
わからないけどたぶんそんな感じなんじゃないかなと思いました。
意図を持って動き、仮説を立ててシャワーを浴びましょう。
好きな事を仕事にする。
好きな事を仕事にしましょう
みたいな事がよく言われとります。
けど、これってどうなんでしょうな。
ソースの論文確認したわけじゃないけど、DaiGoさんのチャンネルで、憧れの職業についた多くの人は仕事に満足していないみたいな事を言ってました。
理由は憧れの職業に就くと、憧れと現実とのギャップに苦しむからだそうです。ごもっとも。
好きな事を仕事にすると言う事について考えたいと思います。
例えば料理を作るのが好きな人が料理人になったとしましょう。
仕事としてやる以上は趣味でやるのとは違って自分がやりたい事ではなくお客さんが求めてる事をしなきゃいけないわけです。
どこかに就職したのなら、そこのやり方に従わなきゃいけなかったり。
となると、料理を作るのが好きな人が料理人になっても、本当に自分の好きな事をしている時間は仕事の内の数%に過ぎない可能性が高くなると思います。
ということは残りの時間は自分の好きな事をする為の食い扶持を稼いでいるという事になります。
もっと大きな視点で見ると、生活の中で好きな事をしている時間は数%で、その数%の為に少なくはない時間と労力を注いで食い扶持を稼いでいる事になります。
これって料理人以外の他の仕事しながら趣味で料理作ってるのと変わらなくないですか?
もしこの人に料理人としての才能が低かったらどうなるでしょうか。
自分の好きな事が出来る時間はどんどん短くなるでしょう。そうすると幸福度も下がるはずです。
でもその時こう自分に言い聞かせます。
「俺は好きな事やってんだ」
でも好きな事やってるのに幸せじゃない時間が続くと、好きだった事も好きじゃなくなっていくんですよねたぶん。
生きる以上は多くの人が幸せに生きたいはずです。その為には好きな事をしている時間を長くするのが良いと思います。
でも、だから好きな事を仕事にした方が良いっていうのは違うと思います。
自分の好きな事と市場のニーズの一致度合いとか、自分の好きな事の市場価値とか、自分の好きな事のアウトプットのレベルとかをちゃんと分析しないと、
好きな事を仕事にしたはずなのに全然思ったとおりにならねえっていうことになると思います。
生きる以上食い扶持を稼がなきゃなりません。
出来るだけストレスを溜めずに短期間で必要な食い扶持を稼いで、空いた時間で好きな事するのが一番いいのではないでしょうか?
好きな事を仕事にするにはどうしたら良いのか考えるんじゃなくて、好きな事をやる時間をどう伸ばすかを考えた方が幸せになれる気がします。
その結果それを仕事にするのが良いと考えたならそうした方が良い。
でも最初から好きな事を仕事にと考えると後で苦しくなる。
好きな事をして生きていくと考えるといいんじゃないかな。
まとまりないなーこの文章。言いたい事が全然言えてない。