予測と結果
ひろゆきさんの話を聞いてるとこの人頭良いなー、頭の良い人の話ってやっぱ面白いなーと思いながら聴いてます。
その中で何でこの人って頭良いんだろう、てか頭良い人ってどういう思考をしてるんだろうという疑問が湧きました。
自分の周りの頭良い人たちを見てもひろゆきさんを見ても「疑問を持つ」「考える」ということをよくやっているなと思うのですが、なんか自分の中でそれだけだと腑に落ちなかったのですよね。
自分の行動に落とし込めないというか。
だってある事象に対して疑問を持つという事自体、たぶん頭が良くないと出来ないんですよ。もしくはそれに対して興味がないと。
考えるにしてもただ漠然と何かの事を考えるって難しいと思うんです。考えたつもりでも考えが浅いとか言われますしね…。
頭良い人はどういうフレームワークを使ってものを考えているのか、どういうフレームワークを使えば頭良い人に近づけるのかな。
そんな事を考えながら今日もひろゆきさんの話を聞いていました。
そしたら一つ気付きました。
ひろゆきさんて何かの感想を言うとき、このパターンだとこういう展開になることが多いんだけどこれはそうならないから面白いんだよねーみたいなことをよく言うのです。
これだ!!!!!!
これたぶん仮説を立てて検証するということを繰り返してるんじゃね?
という事に気が付きました。
これってこうなんじゃね?という仮説を立てて、実際どうなるのか見てみて、仮説と結果が一致すればこれはこうなんだなという事で自分の中に蓄積され、不一致が起きればそれはそれでまた自分の中に蓄積される。
そして何で一致したのか、不一致したのかを考える。場合によってはその仮説をもとにまた検証する。
このプロセスの中には興味を持ち、疑問を持ち、自分で考えるという事も自然と入ってきます。
そしてこのプロセスの何が良いかというと、学習が起こる事。
このプロセスって運動学習のコンパレータモデルと同じなんですよね。
動作の意図と結果の一致・不一致によって運動学習が起こるわけです。
意図が無いと学習は起こらない。意図を発生させることが学習においては大事。よく目的志向型の運動を処方しましょうねと言われるのはこのため。
おそらく運動以外の学習においてもこれはあてはまるのでしょう。
こういう人ならこういうこと言えば喜びそうだよねとか、この展開なら普通この後はこうなるよねとか、そういうのをひろゆきさんとか頭の良い人って引き出しとしてたくさん持っててスゲーなといつも思うんですが、これはただ漠然と情報をシャワーしてるだけでは得られないと思うのですよね。
仮説を立てて、検証するというコンパレータモデル様のプロセスを経る事によって学習が促され、その人のデータベースに蓄積されるのかなと。
仮説を立てる時には過去の自分のデータベースを参照して考え、結果を検証。もし不一致が起きたときも仮説があるから、仮説に対してどういう不一致が起きてそれはなぜ起きたのだろうかというふうに考える事ができる。
仮説が無い状態だと、何かを体験しても漠然とあ、そうなのねで終わる。学習もさして起こらないだろうし、得られた結果に対してもすごーいとかつまんなーい程度の事しか感じられないでしょうか。
頭良い人はたぶんこれを自然にやっているんじゃないかな?
学習が促されるから同じ情報を得てもデータベースに蓄積されるデータ量が多くなるし、データベースに蓄積されているデータ量が多ければ次に仮説を立てる時により良い仮説を立てられるだろうし、
良い仮説を立てられれば結果について考える時もより良い思考ができるということだと思う。
わからないけどたぶんそんな感じなんじゃないかなと思いました。
意図を持って動き、仮説を立ててシャワーを浴びましょう。